『昭和時代のノスタルジー(2)今はなき希林亭』urukoraさんの日記

今夜 君の声が聞きたい ・・・

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日記詳細

メイン通りを下っていくと左手に外観もそのまま2階建ての緑色のグリーンビルに出くわす
このビルを避けて通るわけにはいかない

この雑居ビルの内階段を2階に上がり製氷自販機の前を通り過ぎ右手奥に行くと
シャッターの下りた希林亭があらわれる・・・

ここはかれこれ25年ぐらい前から通った店だった

大阪出身の姉弟がやっていた
カウンターのみ10席程度のお店だが靴を脱いで上がりカウンター前が掘りこたつのようになっている。
そこに足を入れて床にどっしり座る、とても落ち着く

姉であるママさんは和服の似合う関西美人で曲がったことの嫌いな正義感の強い人だった。
料理は主に板前経験のある弟Mが作っていた

スナックとなっているが料理のレベルは相当な物だった
今思っても彼の作った和食など様々な料理より美味しい料理を食した覚えはそうない
食材の選択、扱い、何一つ取っても妥協もなければ、仕事に無駄もなく過飾もなかった

冬場はきれいな出汁を引いて白醤油で味付けした京風おでんを出していたが
その日の出汁の出来に納得いかないと全部目の前で捨ててしまった

それは徹底していた、全ての料理に揺るぎない信念さえ感じ取れた
その当時、駅前で流行っていた一代の大将もよくここのお店に来て
色んな料理を食べて頭を縦に振り唸りながら研究していたものだった。

マスター(弟M)の腕前の陰に隠れそうだがママの料理の腕前も相当だった
後々この姉弟と私は深い友達となるのだった

弟さんとは休日一緒に遊んだり
年に何回かママさんの家でにママさんの手料理を肴に皆で呑んだものだった
ママの料理も手際も良いし味付けも主婦レベルを遥かに超える美味しい手料理だった
色んな相談も沢山したものだ

その度に「Uちゃん、何言ってん!しっかりせなあかんでー!!」

と言ってくれたものだった・・・・


万物流転

そんな関係にも変化がやってくる
弟は店を手伝うのを止め、別の商売をし始める
これには色んな理由もあるので一概には言えないが
ママも料理を出来たし常連さんも多くいたので問題はそうもなかった

それでも私はその姉弟とそれぞれ親しくさせてもらっていた
ただ友人関係というのはそれなりに色んなリスクもあるわけで
ちょっとしたことでお互いの距離が出来つつ 
私もこの姉弟と少しづつ離れてしまっていった・・・


そしてお店は突然終焉を迎えるのであった・・・

10年ほど前だったろうか

ママさんが癌になってしまった・・・ 当時まだ50そこそこだった
進行は早かったようだ
私は葬儀には伺えなかった・・・今でも残念だ


それから後もたまに朝日町に出た際に
酔っ払いながら なぜか雑居ビルの階段を上がっていく私がいた・・・

真っ暗な廊下のつきあたり 
店の前まで行くとシャッターが開いて灯りが零れ

「あら Uちゃんいらっしゃい。今日なあ Mおらへんのやわあ~ 大したもんできへんけどええよなあ~」
と きっちり着物を着付け髪を結い上げたママが出てきそうだった


私の人生の確実に貴重な1ページであった

ページを破り去られたような喪失感を 今でも憶える・・・


階段を降りる時、何度も後ろを振り返り  真っ暗な闇を見つめる

そうなのだ もう 誰もここにはいないのだ・・・ そして その時間も もう ないのだ・・・


少し重い足取りで雑居ビルを抜け

突然 眼に突き刺さるような春の日差しに顔をしかめながら 

通りを下っていくのであった・・・


昭和時代のノスタルジー(3)末広亭、朝日座そして南風莊へ つづく・・・





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